単声書簡

個人という灯台から

ロジェ×束芋

2017年7月6日13時、浜離宮朝日ホールにて。

―プログラム―

ドビュッシー
「版画」より
パゴダ
前奏曲集・第1巻」より

野を渡る風
亜麻色の髪の乙女
沈める寺

サティ:
グノシエンヌ 第5番

ラヴェル
「鏡」より
悲しい鳥たち

ドビュッシー
「映像・第2巻」より
そして月は荒れた寺院に落ちる
金色の魚
「ベルガマスク組曲」より
月の光

吉松隆
「プレイアデス舞曲集・第1巻」より
水によせる間奏曲
「プレイアデス舞曲集・第6巻」より
小さな春への前奏曲

サティ:
グノシエンヌ 第2番

吉松隆
「プレイアデス舞曲集・第6巻」より
けだるい夏へのロマンス
「プレイアデス舞曲集・第4巻」より
間奏曲の記憶
「プレイアデス舞曲集・第5巻」より
真夜中のノエル
「プレイアデス舞曲集・第7巻」より
静止した夢のパヴァーヌ

サティ:
ジムノペディ 第1番

ドビュッシー
「版画」より
雨の庭




予定不調和の魅力

 

 

パスカル・ロジェのピアノと、束芋の映像。

重なるように、また擦れ違うように、共に流れ、交差する美。

 

ロジェのピアノは、手堅く隙がない。

凄まじい集中力だった。

彼のピアノには、良い意味で我がなかった。俺はこの解釈を聴衆(社会)に投げかけるんだ!というような類の。ひたすらに作曲家の描いた色を積み重ね、建築するような、匠の響きだった。
すでに何度も日本に来ているロジェ。ドビュッシー「そして月は荒れた寺院に落ちる」では、残響のなかから笙のような音が伸びるように聴こえ、はっとした。
そして絶品の「月の光」。

曲の最後のハーモニーが天の弧さながらに円く響き、消える瞬間まで、味わい深い演奏。
ロジェが日本人ピアニスト、日本人のピアノ学習者に与えた影響は絶大だろう。
彼のピアニズムに似せたようなドビュッシーの演奏を、国内で何度か聴いた覚えがある。

 

一方の束芋のアニメーションには、線の太い生命力があった。

他の作品を見ても思うが、束芋氏の作品は外国人が好みそうなジャポニズムだけではない、また日本人が好きそうな儚げな風景画でもない、一人のアーティストとしての血の濃い個を感じる。

 

音楽を聴いて視覚的なイメージを抱く人にとっては、映像が自分のイメージをさえぎってしまうことがあるだろう。

賛否両論あるとしたら、そこだろうか。

それはある程度予想していたことで、それでもなお自分も目を閉じてしまった曲が幾度かあった。

自分の色聴と、映像の色がまったく違う時。

また、ドビュッシーラヴェルの音楽において水のイメージはつきものだが、映像の方の水の描写がいかにもアニメ的(崖の上のポニョっぽかった)で、自分のものと感覚的に違うなという時など。

 

ドビュッシーが、「前奏曲集」の各タイトルを楽譜の終わりに書いたことはよく知られている。タイトルでイメージを固定させず、受け手に委ねるためだろう。映像があることで、“音楽から委ねられる感覚”が失せたのは残念だった。あの世界は、ふたりのアーティストの、ひとつのイメージの提案だった。

 

それでも雨の庭で「もう森へは行かない」の旋律が出てきた時、

「悲しい鳥たち」の森の映像が再び現れた瞬間には引き込まれた。

プログラムというのは、名曲の断片的な紹介ではなく、繋がったひとつの世界だと感じた。

 

コンサートではなく、インスタレーションでもない、ふたつでひとつの世界観という新しい試みは、聴きたいものを聴きにいく、観たいものを観にいくのとは違う面白味があった。

芸術家は可能性を探しに、聴衆は驚きを見つけに、古きものへの、新しきものへの探求は、今後も続いていくはずだ。